うとQブログ そうなりたいような手本の存在
2020/8/26-3
(うとQブログ そうなりたいような手本の存在)
自分が子供の頃は、自分も「そうなりたいような手本になる人」というのが結構周りに居ました。
例を挙げれば薬局をやっていた父方の叔父さん、親父の弟です。
面白くて人情家で腰も低く、商売も抜群に上手かった。
しかし若い時には本人は中学卒なのに薬大卒の、後の奥さんになった人と駆け落ちまでして結婚し、その後、許しを得て、本人は薬剤の知識など全くないにも拘らず、後日においては市内随一の薬局にまで育て上げた人です。
こどもは6人もいて、商売がうまくいき始めた頃、子供たちがお母さん(つまり駆け落ちした奥さん)の脚に血管ミミズ腫れ瘤ができたのを「カッコ悪い」といったのを耳にして、普段は穏やかな叔父さんが
「許さん。お母さんが一日、立ち仕事をしているから瘤が出来たんだ。その立ち仕事の御蔭でお前たちはご飯が食べられるんだぞ。それを笑うなど、俺は絶対に許さん。謝れ!!お母さんに謝れ!!」
夏休みで九州に遊びに行っていた時、この事件を目にして
「めっちゃ、カッコええ」
と思いました。
自分の親父も終戦後、外地で捕虜となり、金品(腕時計やアルミ食器等)目当ての現地の「土人」に夜襲をかけられたりし乍、武器がないにも拘らず何とか切り抜け、部下の最後の一人が帰国するまで2年間、外地に留まった後、自分はそれを見届けた上で、最後の最後に復員したのですが、この親父の事も滅茶苦茶カッコええなぁと思っておりました。
(終戦を迎えて軍隊は解体されていたので、もう上官ではなくなっていたのに、でした)
幸いにも、この歳になってすら、数は多くないのですが、周りにそういう方が何人かいます。
皆、何というのか「男気」のある人たちです。男気というのは何も男だけが持つものではなく、女でも「男気」のある人はおります。
男気というのは「あんたがそこまでするんやったら、こちらも一肌脱がせてもらうわ」という気持ちの事です、
或いは、物事の「筋を通す」気持ち、ともいえます。
そういう手本になる人が最近とみ減り、取り分け、自分の身の回りにいないのは大変辛い事なのかもしれませんね。
全ての成長は、模倣(まね)から始まるとすれば。
うとQブログ この手が使えないか?
2020/8/26-2
(うとQブログ この手が使えないか?)
高校時代「哲学」という言葉に大変憧れまして、よくわかりもしないのに課外授業で「フランス哲学」と「ドイツ哲学」を二年間、履修しました。
全校生徒1800人の中で受講したのは両クラス併せて12、3人位だったでしょうか。最後は10人を切っていたと思います。
その中でドイツ哲学の巨星ヘーゲルのアウフヘーベン(止揚)という考え方を教わりました。
簡単に言うと相反するものを包含してその上の次元に移行することが止揚。止めて(とどめて)持ち揚げる(揚がる)から止揚。
この方法が昨今のコロナ禍の解決策に適応できないだろうか?とふと思いました。
「感染拡大防止」(定位)と経済活動再開(反定位)の対立を解消し、それらを包含する上位概念(高次)に移行できる何か。
或いは「有形資産(製造、ハード)」と「無形資産(知識や智慧、ソフト)」や「生産と消費」などなどの上位移行はないだろうか?
量子コンピュータなどはこの考え方を取り入れているような気もします。
「黒と白(0と1)」以外に「黒であっても白であってもいい(0でも1でもいいもの)」或いは各々「そうでなくてもいいもの」の存在を認めたからこそ、計算能力が飛躍的に上がったのだそうだからです。
相反するものの対立の勝ち負けや、そのどちら側に着くかという選択議論ではない何か?もっと言えば「勝ち組に着く」とか「負け組にならない」といった妙な競争と選別や格差を煽るものではない、何かはないか?
そういう視点に立つ必要が今回こそ最大に求められているような気がしております。
しかしこれは自分の経験則上、物事を曖昧にしてしまう極めて危険な因子も含んでいるので、その解を得るには、かなりの難問、難行程になる、であろう予感に包まれております。
うとQブログ 誤解を覚悟で その2
2020/8/26
(うとQブログ 誤解を覚悟で その2)
自分は元重度うつ病患者で12年間罹患しましたが、その時の状況を思い出すと、今後冬にかけて相当数のうつ病予備軍が「発症に至る」(発症宣言をする)予感がしております。
きっかけは言わずと知れたコロナ禍ですが、それは単なるきっかけに過ぎず、その温床はかなり以前からあったような気がします。
むしろコロナ禍という「大義名分」を得て、ここぞとばかり我も我もと名乗りを上げる可能性すら感じております。
つまりかなり前から相当な「抑うつ状態」に多くの人々が陥っていた。
というのも数年前から、街ゆく人々からあまりにも元気が失われているように見えていたからです。
その人たちが、今まで隠していたその「不都合な事実」をコロナ禍という大義名分の「安心感」「正当、妥当性」「横並び観」を得て噴出させる。なので、今後うつ病の季節である冬にかけて発症者数が激増する。
これが自分の見立て。
ではなぜ、そのような抑うつ状態の「うつ病予備軍」が急速に増えていたのか?何がそれを引き起こしていたのか?しかも近年急速に。
観察の結果見つけた自分なりの答えは
「隣人(その時隣に偶然なりとも居合わせた人々。近親者や赤の他人を問わず事実位置関係のみでの臨際者)によるスパイ活動(盗み見、無関心の装い)の深化、高度化、拡大」が原因。
本来打開や気分転換のきっかけをもたらす筈の隣人が、一挙暗転してスパイ、監視者になってしまった。
いや、それが事実かどうか以前に、自分がそうする様になったから、恐らく隣人、臨際者もそうであろうと疑心暗鬼になってしまったという事かもしれません。
これでは元気になりよう筈もない。かといってそれを理由に「うつ病になりました」とも言えない。
なので、今コロナ禍は、その不都合な原因を隠して治癒や休職という結果だけを求める為の「名乗りを上げる」には絶好の機会だからではないか?と申し上げた次第。
しかし、上述の観察が当たっているとすれば、大元の原因が他にあるので、恐らくコロナ禍が過ぎ去っても一転快癒する事はないでしょう。
これ又本日も、昨日に続いて誤解、反発を覚悟で敢えて申上げました。
うとQブログ 誤解を覚悟で
020/8/25
(うとQブログ 誤解を覚悟で)
コロナ禍に至る迄に、何故ここまで酷くなってしまったのか?
しかも相当広範なる範囲で。
思うに、ここまで広範だと酷くなった原因として考えられるのは「教育」位しか思い当たりません。
ではどのような教育によってなのか?
家庭教育?学校教育?職場教育?
恐らくそういう切り口では分からない様な気がします。というのは全ての段階に於いて、に見えるからです。
そうした中で、その起因を探すのは単なる犯人捜し的「責任の擦り合い」位にしか見えません。
ならば、どのような教育に起因しているのか?
こういう言い方が成り立つのかどうかは分かりませんが、自分なりの言い方をすれば
「教えない教育」のせいではないのか?と。
旧世代が新世代に教えて然るべきものを教えていない。
旧世代が教えるだけの経験をなくしてしまったのか?教えるだけの中身がないのか?教えるだけの自信がないのか?それとも教えることで食らう反発を恐れてのことなのか?
言うべきことを或いは伝えて然るべきものを教えないで沈黙してしまっている。
これを非常に大胆な、ともすると誤解を招きやすい言い方であることを覚悟の上で申し上げると
「女子供の前で、男が何も言えなくなってしまっている」
「現世代の前で、先行世代が何も言えなくなってしまっている」
弱者と呼ばれて久しい「女子供」の、完全には一致しませんが、換言すれば「教わる側」の権限が過度に増大し、その複数いる「隠れ帝王」達の前で「家臣」となり果ててしまった「男達」が何も言えなくなっているのが実態。
或いはまた現世代の前で先行世代が「抑圧者」「守旧派」のレッテルを恐れ、沈黙してしまっているのが実態のような気がするのです。
昔は「泣く子と地頭」でしたが今は「女子供と現世代には逆らうな」であるかの様な。
故に男性復権、旧世代復興、等とアナクロな事を言う気は更々なく、それこそ「男女平等」「新旧対等」即ち「New格差ゼロ」にしないといけないのではないか?とだけ。
男や先行世代が女子供、現世代の反発や非難を恐れて「教えない教育」をするに至った弊害が昨今の状況を招いている。
自らの反省も含め、そんな気がしているのです。
うとQブログ 難問愛好家冥利
2020/8/24
(うとQブログ 難問愛好家冥利)
「これだけ」「これっきり」「ワンパックですべてに対応」
といったものが、全くの絵空事で、クソの役に立たないことを、ものの見事に暴き出したのが今回のコロナ禍でしょう。
一品一葉、一件につき一つ、一人につき、同じく一つ。
十把一絡げは存在せず十人十色だったことがはっきりと炙り出された。
又、リモートワークになって上司の自信のなさと部下の指示待ち体質も炙り出された。
将又(はたまた)、在宅勤務になって愛情と思いやりで成り立っている家庭と、そうではない要因(ほぼ魂胆に近い何か)で成り立っていた家庭の差が否応なく暴露されてしまった。
更には、顧客のことを考えている会社と自社の都合だけの会社の違いも歴然としてきた。
かてて加えて、上下を問わず、国も問わず、自分の立場しか考えない人とひとのこと「も」考えられる人間の違いも顕著になってきた。
そうして、慾ボケから、本来母体である「共通土壌探索」をないがしろにして、共通土壌の上に生えているだけの木々のような存在にすぎない「差別化差異化」のみに着目。
それを異様にクローズアップし過ぎて、共通土壌の存在を忘れた結果、木々だけが対話口のないまま孤立対立したような構図が産まれた。
そして、その「頭(派生物)でっかちな」不安定極まりないアンバランスの中で、以上に育った木々の対立が生み出す「勝ち組妄念」に囚われた人間同士の争いが、どれだけ他の生き物や天然自然に対して「大変なご迷惑をおかけしている」かも分かって来た。
そういったことが分かって来た上で、この卓袱台返し(ちゃぶだいがえし)状態をどう整理し、新たなニューノーマル(新常態)をどう築いていくか?或いは今あるものの中から掘り起こしていくか?
ヒントは、この認識外になってやせ細った「共通土壌」をいかに膨らますか?にあるような気がしないでもない。
しかしそれはどうやれば?
これは大変な難問ですが、難問好きの自分としては「誠に解き甲斐のある問題」を戴いて
「ウッシッシ。なんとのう、おもろうなって来よった、やないけ」という感じで
「難問愛好家冥利に尽きる」の一言。
で、そのワクワク感から、いささか興奮気味なのでございます。
うとQブログ 「ニューノーマル考」と新刊本のご案内
2020/8/23
(うとQブログ 「ニューノーマル考」と新刊本のご案内)
大変なものが今三つ。
「コロナ禍」「経済活動大減速」「台風風水害熱波」
これを、数字を使って表すと
(A)コロナ禍+5(B)経済活動大失速―10(C)台風風水害熱波+5で
(A)+(B)+(C)=5+(-10)+5=0
となります。
これを見ると(A)コロナ禍と(C)台風風水害熱波が(B)人間の経済活動を
抑え込もうとしている、何か意思のようなものを感じてしまいます。
ではその前はどうだったかと言えば(A)と(C)がゼロで、(B)が断トツの+10、それで総合計が+10となり、完全に0均衡点が崩れていたような気がしないでもありません。なので、今何かが(A)と(C)を使って(B)に警告を発する目的で、それを抑え込んでいる気がしたのです。
もし、0均衡がお互いにとって正しいポジションであるなら、(A)と(C)は今から其々―5ずつを以て0にする事になりますが(B)の人間の経済活動は今から見ると+10で0。
しかしそれ以前の+10から見ると戻りは、差分の20の約半分なので50%となります。
自分が思うにエネルギー上はこれが正しいポジションなのだと思います。
ここでいうエネルギーとは人々の「快適さの追求」或いは「合法的な欲望の発露」と言い換えることができるような気がしますが、そうなるとこれ以降は「制御、抑制、自粛」の生活を強いられることになり、大いに不満が溜まる事になりそうです。
恐らく今までの考え方の延長線上では想像もつかないようなレベルとなり、とても「エコバックの使用」や「エアコンの適正温度維持」レベルどころの話ではない筈だからです。
極端な喩えですが、50%抑制なので「夏はエアコン使っていいけれど、冬は一切使ってはダメ」くらいのレベル。
そんなものに現代人が耐えられる筈がありません。
ならばどうするか?
これはもう「自分にとっての快適さの定義」と「欲望の向かう先とその達成の仕方」を変えるしかない気がします。
それが今何なのかはまだ分かりませんが、恐らくそれこそがニューノーマルのような気がいたしております。
今月、8月末発売の
コロナ禍、同時進行執筆
カリー屋、ナマステ別館堂主人
「ニューノーマル探索サバイバル日記」
では、その辺を書き進めて参りたいと思っております。
うとQブログ 切羽詰まった「最終的販促策」
2020/8/22
(うとQブログ 切羽詰まった「最終的販促策」)
コロナ禍の郊外戸建て住宅街。
朝はやたらと犬の散歩をする人やジョギングをする高齢者の姿が目立つようになりました。
昼は、コロナ禍に合わせて生じたような炎天下のせいか、ひとっこ一人歩いていません。
動いているのはせいぜい蜻蛉と蝉くらい。
夜も人っ子一人歩いていませんが、昼の炎天下とは対照的に、そろそろ秋が近いのか、公園の草陰では鈴虫が鳴き始めました。
一方お店傍の団地群住宅街。
朝は、地元スーパーの開店時間を待つ人の姿が激減しました。
昼は、まぁ、そこそこな人出の数ですが、夜となると、元々夜はゴーストタウン化していたのですが近ごろゴーストタウン化する時間がとみに早くなっているような。
我々飲食業の商売というのは、店の前の単位時間当たり通行量X通行時間X立ち寄り率ですから、郊外店での地元回帰で単位時間当たりの通行量は上がったものの、通行時間が大幅に減ったため売上が厳しくなっているわけです(立ち寄り率は広告投資でキープしているとして)
しかし、国策と国民自らによる自粛警察とで外出自粛が続く限り通行量と通行時間の拡大は難しいでしょう。まぁ、せいぜい宅配でしのぐしかありません。
となれば、やはり立ち寄り率を上げるしかない、となります。即ちテイクアウトのお客さんのアップ(内食は勧められませんので)
そこで今、力を入れ始めたのが「当たるも八卦、当たらぬも八卦」のイベントの連発。
もっと言えば興味関心を引きそうな話題の提供。
そんな訳で、カリー屋(飲食業)による「コロナ禍同時進行執筆」の「サバイバル日記」をECサイトで毎月、電子出版(紙本ではないのでコストはが限りなくほぼゼロ、手間暇だけです)することに致しました。無論冊数がそんなに売れないのは承知の上です。
しかしこれはお店の生き残りをかけた、かなり切羽詰まった「最終的販促策」のひとつなのです。
ですので、今月の売上に、その端緒が幾ばくかでも見えるよう、現在、ギリギリの準備を昼夜兼行で進めて居る次第でございます。