うとQ夜話 「立場変われば言、変わる」

2020/7/14-4

(うとQ夜話 「立場変われば言、変わる」)

いいものは手間暇がかかっている。或いは掛けないとできない。

しかし、我々は往々にして前者、即ち提供される料理や衣服や家具についてはそれを

相手に求めるのですが、後者、即ちこちらが提供する側になると、その労を厭い「効率よく」の美名のもとに手抜きをする傾向があるような気がします。

無論、無制限に手間暇はかけられませんし、ただ、只管(ひたすら)掛ければいいというものでもありません。とてつもないコストアップになるからです。

そこは折合い。

つまり、限られた、または設定された定時間内にどれだけ手間暇をかけられるか?手間暇をかけて品質を上げられるか?もっと言えば制限時間内に品質を「盛り込める」か?というコスパが大切でしょう。

しかし現実はといえば、冒頭でも述べましたように、消費者としての要求レベルはいやがうえにも上がっているのですが、同じ消費者が生産者でもある同じ我々の生産活動遂行時間になると、何故だか一転して何の矛盾も感じることなく、全く正反対の反比例方向に向かってしまうように気がします。

何故か?

思うに、昔々のその昔、ある総理大臣が「消費は美徳である」といったその標語が、貯蓄を消費に回して経済活動を活性化させようという本来の趣旨を伝えきれない「言葉足らず」のまま、完全に独り歩きしてしまい、その残滓が我々の中にまだ根強く残っているからのような気がしております。

正しくは「生産者である皆さんの生活をより豊かにするためには、貯蓄に回して個別家庭の安定安全を図るのも間違いではないが、あなたを含めお互いがもっと豊かになるためには、その貯蓄に回すお金を社会に向けて放出した方がよいでしょう。ですから「浪費」は罪悪ですが、そうではない「消費」は美徳であるのです。これからは。生産者であるあなたが消費者になることで、生産者であるあなた方が潤うのですから」

で、ここからが肝心ですが、購買行動で実際に消費者となった生産者の生活が豊かになると、この際、透明語でつかわれた「貯蓄」という言葉がいつの間にか「勤労、勤勉」=「労苦、忍従」と連想、連鎖反応を起こし「勤労、勤勉(=手抜きしない)は悪である」と変質。

で、冒頭のような同じ人間の中で、求める立場(場面心理)と求められる立場(場面心理)のアンバランスが生じてしまったのではないのかな?と本日は推論してみました。

当たるも八卦、当たらぬも八卦