うときゅういっき夜話 「大いなる誤解の元」?

2020/7/4

(うときゅういっき夜話 「大いなる誤解の元」?)

前回の記事同様、これまたうろ覚えな記憶で誠に恐縮なのですが、

「大昔、傲慢になった人間たちが天に届こうと建造物を作り始め、それに怒った神さまが、天に向かって建造物を建てる共同作業ができないように「言葉」(会話、コミュニケーション手段)を奪ってそれを阻止した」

という話を思い出しました。

この譬えが、以下の話にそのままコピーとして当てはまるということではないのですが、昨今のコロナ禍対策で「ソーシャルディスタンス」「非接触」「テレワーク」などの言葉や要請を見聞きすると、一つには傲慢になりすぎた我々への天からの戒めのようにも受け取れますが、自分には、そのことよりも更にある種の「大いなる誤解」の元になるのではないか?という心配の方が先に立ちました。

どういうことかというと、上述の言葉や要請は、元々は安全確保に由来した万やむを得ない措置なのですが、これが進みすぎるとコミュニケーション不足による「孤立」や「幻影」がもとになって「暴走」や「分断」果ては「敵対」や「憎悪」が生まれやすくなるのではないかとの危惧のことです。

いくら安全確保のためとはいえ、これはあくまで「当面」の話で合って、決して望ましい姿ではないという認識が必要かと思います。

本来人間、いや、生き物は「接触」や「ハグ」「人肌のぬくもり」を求める存在だからです。原始時代、まだ疫病という概念すらなかったころには、原始人の家族がこの病にかかって倒れたりすれば、却って抱きしめて労わり、それが逆に更に疫病を蔓延させたことだって考えられます。

ところがそれらに反して「ソーシャルディスタンス」はじめ「テレワーク」など、扱いを誤るとさらなる疎遠、疎外の元にしかなりかねない方策方図を、ただ単に一括して「ニューノーマル(新常態)」と称し、あたかもそれらがこれからの正解のように伝播させるのはいかがなものでしょう?

これらは決して「新常態」などではなく「一時的回避施策」に過ぎないのではないでしょうか?(もう少し正しく言うと「新常態」ではなく、我が国で個別的に使われだした「新生活様式」という言い方の方に問題があるとも思いますが)

だとすれば、別に折衷案を出すつもりはありませんが、それを「ニューノーマル」に昇華させたいのなら

「ソーシャルディスタンス」はお上の密室談合の場に推奨し、

「テレワーク」は都市一極集中の歯止めとフリーランス育成に使って、社会構造改革を推進する一方、人と人の本来の姿である、生物由来のコミュニケーションを取り戻す上では、却ってその言葉が無思慮(自動的)に生み出す悪しき産物である疎遠と疎外を戒め、「分断」や「敵対」を産まないように気を付けることが大切な気がいたしました。

なんだか最近、すべてについてポイントがずれているような気がしてならないのですが、どうお思いになられます?皆様方は。