うときゅういっき夜話 コロナ禍での「新鳥獣戯画」

2020/7/2-2

(うときゅういっき夜話 コロナ禍での「新鳥獣戯画」)

朝、たまたま床に目をやると、かなり大きな足長蜂が息絶えて転がっておりました。

昨夜、仕事中にボッコンボッコンと、五月蠅いくらい何度も円盤系の蛍光灯に体当たりをしていた奴のようでした。

「これだけの体で体当たりをしていたなら、あれだけの音がしても不思議ではないな」

しかし、それにしても今コロナ禍で

「通常エアコンは換気機能がないので、成る丈、エアコンをかけずにこまめに空気の入れ替えを」

という助言に従って、夜は、玄関扉と反対側の窓を開けっぱなし(自分が起きている間はですが)にしていたにもかかわらず、なんで死んでしまったのだろう?と不思議に思いました。

つまり

「扉があいているのだから、外に行けば餌にありつけたはずなのに、衰弱死するまでこの部屋にいたなんて。何故なのだろう?」

ということです。                                                  

それで思い当たったのが

「虫の習性である集光性に従いすぎて、扉が開いていることに全く気付かなかったからだろう」

ということでした。

で、その先不図思いついたのが

「我々人間にも同じことが言えるな。一つのことに目がくらんでいると、肝心要の大切なものやそれ以上にいいものの存在を見逃してしまうことがある。例えばお金。

それにばかり気を捕らわれていると、何か大切なものを見つける出口を逸していることだってあるのかも」

でその先更に

「自分が電気を早めに消していれば、この足長蜂は助かったかもしれない。玄関扉が開いていることに気づいて」

で、さらにそこからまた想像が膨らんで

「今コロナ禍は、天が人間にお金や過度の快適さという「電気」を消して、他にももっといい出口があることを示しているのかもしれないぞ」

と、思い始めました。

たかが、虫の死骸が一つ転がっているのを見つけたからと言って、そこまで考えるのは度が過ぎているのかもしれませんが、最近周りの「鳥獣」たちが、ある「戯画」を自分に示してくれているような気がしてならないのです。

だんだん頭がおかしくなってきているのかもしれません。

昨日も自転車に乗って買い物に行って、自転車を置いたまま買い物袋だけ下げて歩いて帰って来しまいました。

それに気が付いたのは家に帰ってきてからでしたから。