うときゅういっき夜話 この地に店を構える理由

コロナ禍猛威の中、既存のものが大きく揺らぎ始めました。

巨大企業といえども、財務基盤の弱いところは存続できない可能性が出てきた。同じく国家といえども、財政基盤の弱い国々は亡国の可能性も出てきた。

また、個人レベルでは、弁護士や税理士、公認会計士でも喰えなくなってきた世の中で、それでも「喰いっぱぐれのない」職業として絶対的地位を保ってきた「あの医者」ですら、コロナ感染を恐れる来院診察者数の激減で、大病院はじめ個人開業医の別なく閉院、閉所の可能性が出てきました。

これらの現象を大胆かつ非常に単純な言葉で言うと

「すべての肩書(社会におけるその人の属性)が剥がれ落ち始めた」

ということではないでしょうか。

国家公務員の肩書。一等国の市民であるという肩書。グローバルな巨大企業の社員という肩書。弁護士、税理士、医者という肩書などなどが突然色褪せはじめ、ぺらぺらの紙切れのように不確かなものに感じられ始めた。

同じく素材としては単なるか紙ペラでしかなく、国家という発行体の信用に準拠した札束(紙幣)すらも、コロナの前でその発行体の存立が危うくなれば、絶対的なものとも思えなくなってくるかもしれない。

要するに今まで人間が信じ込み築いてきた信用や価値、それとその集積体である人間社会そのものが揺らぎ始めたということなのかもしれません。

となると、これはもうリーマンショックどころか、1929年の大恐慌をも超える、いや全く異質の大転換期に突入している可能性をも思考野に入れる必要がありそうです。

となれば、今回のコロナ禍は、最早「単なる経済対策」だけでは意味をなさないことも予測されます。

今の社会人から、肩書とお金が剥がれ落ちたときに、いったい何が残るのか?社会の最小構成要素である個々人に何が求められるのか?或いは個々人は何によって存立、存続しうるのか?

一言で言えば

「何を頼りにすればいいのか?」「それを頼りにすることで希望が持てるのか?」

残念ながら、現時点自分は、その答えを持ち合わせておりません。

ですが、ただぼんやりながら思うのは、肩書や財を取り除いた「生物由来の真水部分(apple to apple)の人間(関係)」の中にヒントはありそうな気だけはしております。

これまた、実感的に申し上げますと、

定年を迎えて肩書もなくなり、収入も激減した我々退職者に「何が残っているのか?」それらがなくなっても我々退職者は「価値を産めるのか?」

更にザックリ言えば「元気に輝けるのか?」

それが問われているような気がしております。

その答えを見つけたいが為に、高齢になりつつある年金生活者の多い、この団地群の一角に大赤字を続けながらも去らずに、ジジイの自分は、この店を構えているような気もしております。